びりノアの坂特漬けの独り言

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昭和、平成、令和ライダーに捧げる異色の映画作品 『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』(一部ネタバレあり)

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『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』

平成最終作としてストーリーにも、サプライズにも期待して初日の午後に早速、鑑賞

 

上映が終了したものの、心ここに在らず。

ただただ凄まじく、予想してたのがバカらしくなる程の、予想外の展開の数々に度肝を抜かれてしまった…

正直なところ、1度見ただけでは内容諸々を完全に把握しきれていない、出来るはずがないのでこれから書く記事もそこら辺、ご了承ください。

(書き手がこれを言うのはどうかとも思うが、事実なので許してくれ)

 

これよりネタバレを含むため(特に今回は)気をつけてご拝読ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1.今作、劇場版ジオウでメタフィクションな内容を取り扱った理由と意義

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今作は物語が進むにつれ、メタフィクション的な作品、つまりメタい作品だという事が次第に明らかになっていく。

平成仮面ライダーの世界観の話を持ち出してきたり、視聴者に語りかけてきたりなどなど…これまでは当然のようにそんな話入れ込むのも、ましてやそれでストーリーを展開するなんてことは御法度だったはずだ。

これまでのジオウだって…

 

と、思い返してみると…あら不思議、ジオウではほんの少しづつ、料理にアクセントを加えるが如く、ほんの少しだけ、それらのメタに近い要素を盛り込んでいたじゃないか。

例えば、冒頭でウォズが語りかけるシーンだって、そこのみではあるが『第四の壁』を越えた発言で間違いないだろう。(ネタバレしちゃう時なんか特に)

それに、『平成ライダー』なんて改めて考えてみるとなんてメタい要素だったんだろう…と。

 

平成ライダー』に関してはジオウのみならず冬映画で頻繁に取り上げられてはいたが、本編に直接絡んできてたのはジオウのみだろう。

その要素としてのメタさを気付かせると共に、それを扱ってきたのだから確実に総括させる必要があった。

故に今回は主軸を完全なメタフィクションとして出来上がったのだろう。

 

 

2.果たしてあそこまでメタい内容にする必要があっただろうか

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うん、これに尽きるだろう。

今作を鑑賞して、あまりにもメタすぎる要素の数々に拒否反応を示す人が一定数いるはずだ。

それもそのはず、今作は上記の通りあまりにもメタい内容なのだ。

いくらジオウを総括するにしても仮面ノリダーを引っ張り出してきたり、死んだはずのウォズを何事もなく戻してきた挙句、その事をラストで触れるなんて…

 

ここまでのメタさは許容範囲ではない、もはやコントじゃないかと思ってしまうのも無理はない。

東映側もその事は作る上で当然、わかりきっていたはず。

しかし、東映はよく言えば、フィクションとメタフィクションの中間。悪く言えば中途半端な作品にしたくなかった。メーターを振り切って、挑戦的な作風で劇場版ジオウを作ろうと決め、メタ的な要素を豊富に盛り込んだのだろう。

少なくとも私はその事を強く強く強調し、評価したい。

(18の若僧ですが、私もノリダーは知っていたので出てきた時は興奮しました)

 

 

3.ジオウという作品のエンディング

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今作の気になるところ、ジオウという作品としての結末はどうだろうか。

 

ジオウ本編がどのような結末を迎えるのかもわからない(19年6月26日、現在)。

映画では本編のラストに踏み込んだ話は入ってはこなかった為、どうなるかも予想がつかない。

(せめて、タイムジャッカーがいなかったこと、ツクヨミが力を使ってなかったことが挙げられるかもしれない)

ただ、ドライブの力は映画で継承された為、本編で揃う事はないのだろう。

2年前の『仮面ライダーエグゼイド トゥルーエンディング』では割と本編のその後描いた後日談である事が強調されてたが、劇場版ジオウでその点はあまり丁寧な説明がなく、『おそらく後日談なんだろう』と観客が頭で情報を補っていた事かと思われる。

私自身も後日談として見ていた為、ここでもその事を前提に話を進める。

 

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映画ではジオウが真の大魔王になるまでが描かれていた。

あえてメタ的な内容に触れずに話すと、常盤ソウゴは未来で最低最悪の魔王になる人材ではなく、あくまでバールクスに変身していた…常盤SOUGOの影武者にすぎなかった。ソウゴは平成ライダーの力を継承させる為にジオウとして持て囃されていたのだった。その真実に深く失望するソウゴ。

しかし、ソウゴはみんなを、民を幸せにしたかったから王になろうと夢見ていた。

それに偽りはない、俺は王になりたかったんだとイメージの世界?にてオーマジオウから諭され、力を継承。

オーマフォームに変身し、平成ライダー、民を率いて見事バールクスたちに勝利した。

 

ジオウ本編のラストに盛り込んでしまっても良いようなエンディングであった。

本編のエンディングがより気になるところではあったが、現段階で映画のエンディングはジオウとして最高のラストとして仕上がっていたのは間違いないだろう。

 

 

 

4.映画前半の戦国時代の有意義性

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劇中前半では信長のいる戦国時代と共に、テレビ本編でいうドライブ編が描かれていた。

その為、この映画は前半、戦国時代兼ドライブ編。後半、ジオウとしてのエンディング。という構成になっている。

といっても、ドライブ(マッハ)は冒頭で多少介入した程度で前半のラストに継承し前半の役目は終わってしまう。

 

問題は戦国時代が後半で主軸になる内容として有意義であったか、どうかだ。

前半を見ながら、正直、これは果たして必要なのかと考えてしまった。確かに、ストーリーとしては信長のキャラだったり、戦が面白く、カッコよく描かれてはいたものの必要かどうかと問われると素直に頷けなかった。

しかし、後半に入りソウゴが影武者だと判明した時、その意見が覆った。

前半、戦国時代で現れた信長は残念ながら語り継がれてるような大々的なイメージとは大きくかけ離れていた。

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と、同時にそれは『牛三』と呼ばれる家臣が信長の伝記を書いていた際、魔王のイメージを取り込んだものだった。

その為に今の信長像が作られた。語り継がれたイメージというのはあくまでイメージであって、絶対的に正しい訳ではないことをソウゴたちは自らの身を持って体感した。

その後の展開はその教訓を生かせと言わんばかりの内容だ。

 

オーマジオウ=現代の信長像

常盤ソウゴ=本当の信長像

クォーツァー=牛三

ゲイツたち=現代人

…としよう。

ゲイツたちはオーマジオウを50年前のソウゴだと疑ってもみなかった。しかし、いざ戦おうとするとあまりにも楽観的でオーマジオウになるとは到底思えない人間だった。

そう、ゲイツたちはオーマジオウをソウゴだとして未来まで語り継がれてきた。

しかし、それは逆信長現象でオーマジオウの正体は常盤ソウゴというイメージがクォーツァーによって作られ、ゲイツたちはそれに気付かずにいた。

信長同様、本当は全然違っていたのにも関わらず…

 

その筋道を発見させる為にも戦国時代のくだりは必要不可欠であったことがここに立証された。(なんか公式みたいになっちゃった…)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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いかがだったでしょうか。

今作がどれほど記事にしがいのある内容であったか、私はよく理解できましたw

それほど今作は難しい、一方で単純な内容です。

これらを把握した上で、もう一回。

本編最終回を迎えてから、もう一回。

そして総まとめとして、もう一回。

正直、これくらいしないと収まりきらないほど濃密な作品。

ジオウという作品がどれほど異色で、20周年記念作にふさわしい作品かをただ痛感させられました。

ジオウがこの様な形で成功した事を大変嬉しいく思いながら〆させていただきます。(まだ本編は終わってないけど)

ご拝読ありがとうございました!